JUNICHI GOTO
後藤 純一
46歳 |
ライター / 編集 / 校正 |
青森県出身 |
ゲイ |
#009 2016年4月撮影
1996年、会社を辞めて『バディ』編集部で働こうと決意した僕は、母がお墓参りで上京した際、PSGという親の会が作った「家路」という冊子を母に手渡し、カミングアウトしました(冊子がなかったら言えなかったかも…。これを作った故ひでとしに心から感謝しています)。最初はうっすら涙を浮かべていた母ですが、青森の実家に帰った後、冊子に載っていた推薦図書を全部買って読んで、理解してくれただけでなく、昔気質な父にもうまく説明してくれて…ある日、父から「今までずっと言えずに苦労してきたんだね。何も知らなくてすまなかった」と手紙が届いた時は、本気で号泣しました。
2005年、やはり両親がお墓参りで上京してきたので、パレードとレインボー祭りに連れて行きました。レインボー祭りでは両親が最前列で僕の(ちょっとここでは書けない)ハレンチなショーを見てくれたのですが、終わった後、母にマイクを向けて「どうだった?」と聞いたら「人間万歳!」と叫んで、みんなを歓喜させました(母はつい最近も、僕らがやってるクラブイベントで「生まれてきてくれてありがとう!」と叫んで、みんなを感動させていました)
2006年、10年間勤めた『バディ』編集部を辞めて、時間に余裕ができたため、僕は(退職金をつぎ込んで)両親を沖縄旅行に招待しました。僕は車の免許を持っていないので、道中、すべてダンナが運転をしてくれました(高速に乗って美ら海とかまで行ったので、結構疲れたと思います)。沖縄旅行を終えて、浜松町で青森行きの夜行バスに乗る両親を見送る時、ダンナとはろくに口を聞いていなかった父が「運転大変だったでしょ。ありがとう」と言って、密かに沖縄で買っていた泡盛をダンナにくれたのです(泣きました。今思い出しても泣けます)
2010年、そんな父が他界しました。ダンナが青森までお焼香に来てくれました。
あの時、勇気を出してカミングアウトして、本当によかったと思います。そして、快く受け容れてくれた両親に感謝! 僕は幸せ者です。