OUT IN JAPAN

あなたの輝く姿が、つぎの誰かの勇気となる。
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YURIKO ISHII

石井ゆり子 (左)

47歳
自営業(対人援助職)
東京都出身
定義保留中

#009 2016年4月撮影

まわりの人へのカミングアウトの前に、自分のなかでのカミングアウト、「自分はこれでいいんだ、好きな人と、一緒にいたい、と思っていいんだ」と、思えたのは30代になってからでした。それまでは、どこかで、世間に認められるようなおつきあいなり、結婚なりをするべきなんだろうなあ、と、思っていたのです。当時は、LGBTに関する情報は、国内ではわずかで、変に思われることを、私は気にしていたのです。30代のころ、海外に住むレズビアンの年上の友人ができて、素敵に生きている生身の存在に、勇気づけられました。

そして、今一緒に暮らしている彼女に、カミングアウト兼プロポーズをしました。12年前のことです。

ここ10年ぐらいの状況の変化には本当に驚いています。このプロジェクトにも、こんなにたくさんの人が、顔と名前を出しているなんて。すばらしい!

LGBTという言葉はおろか、ゲイ、レズビアンという言葉も口に出すのも大変な時代から、勇気を持って、ひとり、またひとりと、声をあげてくれた先輩達の勇気の積み重ねのおかげだと思います。そして、それを見守り応援してくれる人たちがいたからだと思います。

これからの若者や、若者に限らないいろんな人に、自分の感受性を信頼して生きるための、ささやかな勇気をつなげられたらと思います。

そして、今、幸いなことにLGBTが脚光を浴びて認められてきたからこそ、今、見えにくい、声が届きにくいところにいる、LGBTに限らないマイノリティの人たちや存在の、サポートに少しでもなれたら、と思います。

NAOKO MATSUSHIRO

松代 尚子 (右)

46歳
自営業(翻訳業)
埼玉県出身
定義保留中

#009 2016年4月撮影

おつきあいをした人で、なんの迷いもなくまっすぐシンプルに、一緒に暮らしたい、一緒に生きていきたい、と思ったのはゆりこさんが初めてでした。

自分にとってはとてもナチュラルで、とてもうれしいことだったので、友人や同僚に聞かれたり、話題がのぼったりしたときは話していましたが、両親やきょうだいには言えずにいました。

実家の家族に、彼女が人生のパートナーであることをちゃんとはっきり伝えられたのは、一緒に暮らし始めてから10年たってからで、母が他界した翌年でした(それまでもお正月やお盆を実家の皆と過ごすときには、彼女も一緒だったのですが、はっきり伝えたらどんなふうに受け止められるのか、わからなくて、言えずにいました)。10年のふしめだったことと、母に伝えそびれてしまったことの両方があって、やっと決断できたように思います。

スマートにさらりと伝えるつもりが、なぜか話し始めたとたんに涙声になってしまって、ほんとうにカッコ悪い話し方になってしまいました。でも兄はわたしに「やっと言ってくれたね」と、父と姉はゆりこさんに「これからもなおこをよろしくね」と、言ってくれました。

いまだにわたしは、自分がセクシャルマイノリティーだと思うとしっくりきません。自分のような傾向の人はたくさんいるように思えていて、マイノリティーには思えないというのが、正直なところです。

いろんな傾向は、プリズムを通る光線と同じで、スペクトラム。くっきりと七色が別れているわけではないことも、思います。それぞれのありようが、それぞれに、ただその人であって、それぞれに尊い、ということが、大前提になる日が近いのかな、と思っています。